ヒマワリの溝

ホテルからどこだかの施設に行ってまた帰ってくる。と、自分が文庫本一冊しか持っていないことに気付き、忘れ物を取りにその施設に引き返すのだけど、来た道を戻っているだけのはずなのに別の道を歩いている気がする。迷ったのかもしれないと思いながらもアスファルトの坂道を上っていると、きっと同じ場所を目指していると思わしき少女が、犬を二匹連れて、ものすごいスピードで後ろからかけてくる。あっと言う間に追い抜かれてしまい、自分も追い付こうと走るけれど坂道ですぐ息があがってしまうし、さすがに付いて行かれない。彼女の背中を見ていると、まっすぐの坂道を逸れ、犬を連れて左手の原っぱへ降りてゆく。道は違ったのかな、と見送って上り続けていると、ひとしきり原っぱを走り回ったあと、また彼女はかけ戻ってきた。そうして、坂道のてっぺんで合流した。
そこにある道路には見覚えがある。両脇の大きな溝に一段低くなった小路があるので、そこを歩いてゆけばいい、はずだったのだけど、左手の溝に路はなく、浅い水の流れの中に咲いた大勢のヒマワリで埋まっているのだった。僕と彼女は、ヒマワリが成長すると路が水に埋まり消えてしまうその仕組みに気付くと、大笑いしていた。右手の溝を見ると、そこには灰色の覆いが造られていて、溝の向こうの家とこの道路とを繋げていた。今ぼくたちが発したような笑いを原材料にしていると分かる覆いだった。ひとつの家の戸を叩くと、おばあさんがぼくらを中へ入れてくれた。
そのおばあさんはお茶とお菓子をご馳走してくれた。そしてこんな話をしてくれた。
私は今の歳まで独身で生きてきて、何も遺せなかったけど、いまはおまじないをしているんです。五千円札で何か買い物をするでしょ、するとお釣りが出る。そのお釣りを全部、会計してくれたお店の人に渡すんです。これがおまじない。相手がセックスする時にしかこれの効果はないんですけどね。
そんな話だった。女の子はその話が気に入ったらしく、「おまじないにやる」と言って、身に付けていたものをその家に置いていくことにした。僕もそうしようと思ったけど、そもそも本一冊しか持っていないため、栞を置いていくわけにもいかず、あげる物がないのだった。そうして、僕達はまた出発した。