変わりゃしねえよ世界線

太陽の光を浴びて通りのタイルはキラキラと輝き、というよりは目を刺して、遠くを曲がる車の輪郭もいやにくっきりとしているので、七月ならもう夏かと思う。この夏から2クール過ぎれば冬になる。冬になるまでおれはこの感じを感じ続けることになる。子連れの主婦たちが切り離された笹を手に手に語らうのを見て、暢気な人たちは七夕がおれにどのような印象を与えるか知るまいと思う。知る由もないとはまさにこのことで他人を恨むことに正当性もない。
多少なりおれの抱えるこの問題を知っている人が、おれが意固地になる様子を見てどれだけ他人を気にしているんだ(自意識過剰なのだ)と言うので、このようですがご存知ないか、と思う。分からないことが不思議なのであって知ってもらえなくて悲しいとも思わず、ただ考えてみれば当然理解され得ないことだったよなとそういう一般論に落ち着く。
近ごろは友人に“恨み節”(数日前のただ長い日記)を褒められて、名指しで呼ばれるのは嬉しいといつものことながら思った。恨み節と彼は呼んだけどそれがまさに当たっていておれは理不尽な恨みを抱えて過ごしている。ただこんな極限まで個人的なことを分かってくれる人がいると思うのは分の悪い賭けだし、そもそもドロドログチャグチャとした感情など誰でも持ち合わせているのし、加工しない(むしろ下手に手の入った)生の感情というようなものに意味はない。おれを知っている人が曲がりなりにも価値のようなものを見いだしたとすれば、おれの人格というものが多かれ少なかれ彼の人生に組み込まれているからだ。
強い感情は人格に深く根を張っているから歴史や環境を共有していない他人には理解しがたく、そんなものを大事そうにされても怪訝に思うかむしろ迷惑というものだ。近しい人間だけでは飽きたらずもっと多くの人間におれが受け入れられたいと、共感や理解を欲するならば、おれの書くことは却って人格からある程度独立していなければならない。一方創作や批評というものは、書き手の人格に関係なく触れた人の視野を広げまた新たに動機づけるから、人のすることとして高級だというのだ。


酒の残った頭で今朝書いていた