廃ビルと海

物を借りるのだったか返すのだったか、とにかくそういう理由で、知り合いの家に行かなくてはならぬということになって、東の方にあるぼろいビルを訪ねた。彼の住んでいるあたりは見捨てられ荒れはてた地区で、オレンジの街灯に照らされた広い夜道には人気もなかった。道端にゴミ溜めがあったので、手にしていたゴミを投げ入れると、凶暴そうな野良犬が二三匹駆けてきて凄い勢いでゴミを食べ始め、そのまま俺の右腕に噛みついてガジガジとやった。かじられた所を後になって見ていると腕に傷がついていて、狂犬病になりはしないかと、不安になった。その後ずっとその不安がつきまとっていた。
なぜかエレベーターが三階で一度途切れていて、彼の部屋は五階にあったので、乗り換えのために廊下を歩くと、ビルは、ぼろと言うよりもはや廃ビルで、壁などはほとんど残っておらず、その頃にはもう真昼になっていたので、廊下から、水平線まで続く海が見下ろせた。
上に続くエレベーターに辿りつき目をやった瞬間、小さな女の子の影が見えて、すぐに視界から消えたのが、可愛かったなと思って、もう一度そちらの方を見ると、エレベーターの扉に体を隠したその子の瞳が、目全体に広がっていて、瞼の隙間には白目の占める部分がなかった。ギョッとしたけど、眼球は年齢とともに成長しないから、年をとればバランスもまともになっていくのだろうと思って、自分を納得させた。