『禊ぎとしてのアイドルマスター』

読ませてもらった。

俺は基本的に日記しか書けない人間なので、感じ考える主体である自分がストーリーに登場していなければ三行以上の論理も書けやしない。だから徹底的に自分の人格、経験を排した文章を書ける人に憧れる。批評と分析は俺の手を離れる。
とはいえ自分の経験が他人のまったく違う視点で整理されて、見返す機会があるというのは、いいことだ。あの当時の、トゥルーエンドがそこにあると聞いて、苛烈な戦いを経て辿りついた高ランク (B〜A、そしてS) に立ってみると、そこは願っていたような楽園ではなく、ただただこの苦闘の延長、それどころか、この先、今まで以上に苦しめられることが、そこに到達するまでの経験から分かってしまった時の、胸の内側からヒリヒリする感情というのを思い出す。こんなの健全なはずがないが、じゃあそのゾンビめいた不健康さはどこから来るのか、その源泉が「禊ぎ」なのだという。
ふたたび俺は自分の経験に軸を置いてしか考えられず、客観的に見てアイドルマスターが作り手を含むある種の人々のための禊ぎだというのなら……その人々に属さない、俺たち21世紀を生きる者に対して、彼らの禊がれた穢れは、そのまま呪いとなって降りかかる。気付いた時には喜びと区別のつかない大きな苦しみを与える側に立たされていて、そうして自分自身知らなかったその喜びと苦しみを、否応なく追体験させられる。彼らの思うところの時代、その体験、その葬送、それらを端的に形にしたものが、それを初めての経験としてぶつけられた俺たちに、新たな歪みを生み出す。それは伝承だし、時代の連なり方としては正しいかたちなんだろう。だから続く話は『呪いとしてのアイドルマスター』、こうでなけりゃね。