誕生日を言祝ぐ

誕生日を祝うということが幸せなことなのは、人々が喜び祝っているのが、祝われる人の存在そのものだからだ。存在してることに巧い拙いはないから、ただただその人が在ることに、純粋に感謝している。おめでとうと言って、ご馳走を食べて、この特別な日をもっと特別にする。こんな日がまた巡ってくるんだろうか! ちょうど一年前の同じ日には「もう来年は来ないのかもしれない」と内心おびえていたことを思い出し、無事に今日という日が迎えられたことに安堵する。そうして暗澹と続く残りの364日を、また、何とか無事に暮らせますようにと祈る。
誕生日は、だからむしろ、周りの人のための記念日だ。当の本人にとっては自分の存在など、あって当然、なければ世界も論理もぜんぶ意味をなさないのだから、そもそも何が祝われているのかも分からない。周囲の人間は、その中心人物、祝われる本人がおいてけぼりを食らうことを良しとしない。折角いい気分で祝っているのに、水を差されたくないからだ。そこで皆、プレゼントを贈る。幸せのお裾分けみたいなものだ。当然、貰った本人が喜ぶようなものをあげる。喜ぶ顔が見られればいっそう幸せだ。かくして誕生日のお祝いは幸せに体面を保つ。
今日はあちこちで、様々に、彼女の誕生日が祝われた。それぞれ他人の目を楽しませ、もっと沢山の、傍目には目立たない、心の中で祝う人たちの気持ちを、さらに幸せにしただろう。皆は幸せに祝った。そうして、祝われている本人はどう思う? 本人はどうとも思わない。彼女には人格がないからだ。単に架空のキャラクターだからだ。だいたい今日という日付にしたって、何年か前の今日、彼女がとつぜん姿を現したわけでもなくて、ただ誕生日として決められていたから祝っている、それだけだ。でもこの意味のない決められた日に、示しあわせて、祝う。生きてもない彼女の存在を喜ぶ。あれからまた一年経って、いろいろ(それはもう、いろいろだよ)あったけれど、また祝えるような気持ちでこの日を迎えられたことを喜ぶ。みんな自分と、隣人のために祝っているんだ。そこに本人の気持ちは介在しない。でもそれこそ誕生日ってもんだろ?