上田さんのこと

 ぼくはもともと田舎の中学校の出身だったが、高校に進学してからは別の町に通うようになり、大学に行くときには地元を離れ、一人暮らしを始めた。当時の友人たちとも散り散りになってしまい連絡もほとんど取っていなかったのだけど、今年は卒業からちょうど十年目だということで、同窓会が大きな規模で開かれると聞いて、この間の盆にはそれに合わせて帰省して、顔を出した。
 卒業以来会うこともなかったのでほとんど顔も忘れてしまっていて、知らない人たちの中にいるようだったが、それでも自然と、お互い名前を思い出せるもの同士がひとつのテーブルに集まった。そうして昔話に花を咲かせるうちに、ふと、そこにいた数人が共通して経験していたこと――そしてすっかり忘れていた人のことを、誰ともなく口にして、ぼくたちは彼女のことを十年ぶりに思い出したのだった。


 ぼくたちが同じクラスに所属していたとき、その同級に上田さんという女の子がいた。目立つグループには属していないが、かといってひどく内向的なわけではなく、つまりクラスに一番よくいる部類の、ごく普通の女子だった。ぼくらは顔をつき合わして彼女のことを語ったが、当の上田さん自身はその場にいなかった。彼女はぼくたちの学校を、卒業してはいなかった。
 そもそもの始まりはこうだった。最初に言い出したのはぼくのような気も、別のやつだったような気もするが、ほんとうのところはもう思い出せない。ともかく、その最初の一人が、休み時間の雑談に、こう言った。
「上田さんに何か、母性のようなものを感じる」
 そして、だから彼女は妊娠しているのではないか、と続けたのだった。その突拍子もない台詞をひとしきりからかって満足すると、一転して、ぼくたちは年頃の男子たちのもつ妙な熱心さでその主張を真面目に検討し始めた。そうしてみると、たしかに母性なるものを感じないではないし、彼女のお腹には少し膨らみがあるようにすら思える。そんな風に肯定的な証左をでっち上げていくうちに、自分たち自身納得させられてしまい、休み時間が終わるころには、彼女が妊娠していることはぼくたちの共通の了解となってしまった。
 ぼくたちは示し合わせて、上田さんをさりげなく観察することにした。彼女と日常的に親しく話すやつはいなかったので、自然と遠巻きに見守るだけになる。彼女に反論の機会など与えられないまま、ぼくたちは勝手に確信を強めていった。
 疑問だったのは、当然、お腹の子供の父親だった。ぼくたちの誰ひとり、彼女に恋人がいるなどという話は聞いたことがなかった。小さな田舎町だったので、そんな素振りがあれば噂にならないはずがなかったのである。そのことにみんなして頭をひねっていたある日、机を囲んで弁当をつつきながら、誰かが言った。
「あれ、想像妊娠なんじゃね?」
 馬鹿な思いつきのようだが、その頃のぼくらにとっては何ひとつ起こり得ないことなどなかったから、どんなことも考慮に値したのだった。実際相手がいないのだから、そう考えざるを得なかった。だがやはり彼女が妊娠のことを、思いつきすらする理由がない。想像妊娠ってのは妄想や強迫観念がなければ成立しないのだよ――、そう結論づけようとしたところで、ぼくたちは気がついた。何のことはない、彼女の妊娠のことを想像しているのは、ぼくたちじゃないか! 想像で妊娠できるっていうのに、その想像が他人のものであっていけない理由がどこにある? その発見はぼくたちを興奮させた。ぼくたちは少女を妊娠させたのだ。それも本人のあずかり知らぬところで。
 それからぼくたちは彼女の妊娠をより意識的に想像するようになった。そうやって想像を続けていると、まれに妊娠を確信している自分たちに気づくことすらあった。ぼくたちの想像、いや妄想を向けられて、かわいそうな上田さんのお腹は少しずつだが順調に、その膨らみを増していった。その素振りこそ見せなかったものの、彼女自身身体の変化には気づいていたはずで、混乱しながらも何かしら抵抗していたのだろう、週末を挟んで月曜日には、その膨らみが明らかに後退しているのだった。彼女が教室に姿を見せない日にはぼくたちの意識が向けられる機会も当然少なく、その結果、症状が抑えられてしまうのだろうとぼくたちは考えた。それからは休日にも彼女の(お腹の)ことを思い、症状は速やかに回復――彼女にとっては悪化――していった。
 上田さんは相当悩んでいたはずである。妊娠するはずもないのに、なぜこのような体に? 自分に非のないことをそうすれば証明できるとでもいうように、彼女は(少なくとも最初のうちは)堂々と登校し続けた。教室に姿をさらすことがさらに彼女を追いやることになるとは思いもしなかっただろう。
 はじめはぼくたちのように注意深く、集中した意思をもって見つめるものにしか分からなかったその腹部も、しかし、次第にほかの人間にもささやかな違和感を与えるように成長しつつあった。まず彼女の近しい友人たちの視線に、戸惑いが混じるようになっていった。上田さんはあくまで彼女の思うところの普段どおりにふるまっていたようだが、問われれば言いのがれのできない状況が彼女の周りに形作られつつあった。
 そうして本人の意志とぼくらの妄想との攻防が一進一退を続けていたある日、彼女のお腹が明白に膨らみを増した。ぼくたちは協議して、おそらく、彼女に近い人間のうちの一人が妊娠を信じる側に回ったのだろうと結論づけた。ひとたびこうなると速かった。みるみるうちに妊娠の兆候は顕著になってゆき、そしてその結果、加速度的に他人の意識が彼女に向けられることになった。上田さんはだんだんと顔に不健康さを見せはじめ、昼ごろから教室に現れたり、授業に出ずに保健室で寝たりしていることが多くなっていった。
 始まって以来止まり続けることなく加速していた事態に終止符を打ったのは、彼女を心配する、仲の良い友人たちだった。教室で、女子の何人かが、彼女の出産のためのカンパを自主的に募りはじめたのだ。女子のネットワークにおける上田さんの妊娠がぼくたちの予想以上に確実度を増していたことが、このときになってやっと知れた。ともあれこの行動により教室中の意識は決定的に、彼女が妊娠しているという「事実」に向けられたのだった。いつものように彼女が遅れて教室に入ってきたとき、ドアを開いた彼女に向けられたクラスメイトたちの視線はさぞ慈愛に満ちていて、かえってそれは彼女には絶望的に映ったことだろう。
 上田さんはついに登校をやめた。小さな町では仕方のないことだったが、もはや学校の外でも隠しだてのできないところまで事態は進展していた。やがて彼女の両親が学校に姿を現したという噂がたち、しばらくして、彼女が転校したことが担任の口から知らされた。それから数日間のあいだ、妊娠のうえ転校していった上田さんの話題はひととき学年中を駆けていったが、めくるめく学校行事のうちに、すぐに忘れ去られていった。


 そうやって他人のことが噂として消費されていくことといったら、もともとの当事者であったぼくたちですらこうやって顔を合わせるまではすっかり記憶の彼方に追いやっていたほどである。そんな昔話を肴に、ぼくたちは酒を飲み交わしたのだった。
 同窓会は楽しかったが、ただ、ひとつだけ気になることがあった。その会でいろいろな人と話したうちに、上田さんと仲のよかった女の子で、数ヶ月前に偶然彼女に出くわしたという人がいた。その時上田さんは大きなお腹を撫でながら、こう語ったのだという。あのとき自分を妊娠させた、その子の父親を探しているのだと。
 となれば彼女の想像妊娠はいまだに続いているのだった。しかし再会するまですっかり忘れていたぼくたちは、とっくに例の妄想を手放したはずだった。上田さんのことは一時の話題として消費され、それから誰も話にのぼらせることすらなかったのだ。それでは、なぜ彼女はまだ想像妊娠を続けているのか? 彼女の腹に詰まっているのは、いったい誰の妄執だというのだろうか?