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夜を走る光

 萩原雪歩は仕事を終えて帰り支度を整えても、すぐに帰るわけではないようだった。バッグを肩に掛けいつでも外に出られる格好をしているのに、じっと立ったままでいる。事務所の共用の本棚に誰でも読めるように置かれているファッション雑誌をしばらくの間興味なげにめくっていたが、それにも飽きてしまったようで、いまは窓の外を静かに眺めていた。近ごろ急に早くなった日没に往来は橙へと色を変え、街の灯りがぽつりぽつりと顔を出しはじめている。そうしている間、雪歩の視線がふいに泳ぎ、事務所のある一方を見つめていることがあった。
 視線の先では今日のダンスレッスンを終えた菊地真が、同じユニットの天海春香と今度の新曲について言葉を交わしていた。くつろいだ様子だが、しかし真剣な表情で、二人はいくつかの点について確認をとっていく。春香の質問に、ときおり真が身振りを交えて答えている。やがて互いがそれに満足すると、自然と沈黙が降りて、真が伸びをしたのを合図に、その日はお開きとなった。お疲れさま、と互いに声をかけ合うと、真はくるりと踵を返して、自分の学校指定の鞄を拾い上げる。それから事務所を見渡すと、一箇所に目を留めて、そちらへと歩いていった。

「雪歩、もう帰るところ?」
 真の声に弾かれたように、雪歩はそれまで不自然にこわばらせていた体を翻して、笑顔を見せた。
「あっ、真ちゃん。そうだよ」
「じゃあさ、ちょっと行きたいところがあるんだけど……」
「また『かわいい店』?」
 わざとうんざりしたような仕種で雪歩が言うと、真は苦笑いをする。
「やっぱりボクひとりじゃ入りにくくてさ……」
「うん、じゃあ一緒に行く?」
 雪歩は笑って、返事も待たずにすたすたと真の前を歩いてゆく。その背中を見ながら小さく肩をすくめると、真は事務所を出ていく雪歩のあとにつづいた。閉じかけたドアを片手で押さえると振り返って、
「お先に失礼します」
 事務所の皆に向かって真が挨拶をし、雪歩の後を追う。それから一緒に階段を下りてゆく二人の靴の音を覆い隠すように、ドアがゆっくりと閉まっていった。

 その二人を見送るようにして、如月千早はソファに腰かけて眺めていた。すこし早めに仕事を終えた千早は、春香と一緒に帰る約束があったため楽譜に目を通しながら待っていたのだが、雪歩の様子に気がついてからは、楽譜を膝の上に置いたまま、ずっと思案するような表情で二人のことを見つめていた。ドアが閉まる音に気づかされたようにしてふたたび楽譜を手に取ると、いつも持ち歩いている鞄に加えて一日分の着替えが詰まった大きなバッグが隣に置かれているのが千早の目に留まった。今日はその荷物を持って、春香の家に泊めてもらうことになっているのだ。千早は最後に人の家に泊まったときのことが思い出せないくらい昔のことで、前の晩の準備のときに荷物の加減が分からなかったことを思い出して、不格好に膨らんだバッグを少しきまり悪く思った。

 新曲のダンスについて真と細かい詰めを終えた春香は、千早のもとに駆けよった。千早は事務所の端のソファに、荷物とともに少し居心地悪そうにして座って待っていた。
 今日のことは春香の方から誘ったことだった。以前、千早が何げない会話に、オフの日にはいつも一人で部屋にいるという話をしたことがあった。そのとき春香は大げさに驚いてみせて、寂しくないの、と訊いたが、千早はふしぎそうに首を傾げただけだった。
「別に……」
「そうかなあ。あ、今度オフの予定が合ったら、私の家に遊びに来ない? お菓子作ったりしよう! たのしいよ!」
 一方的にそう言って強引にうんと言わせた春香は、それから事務所に掛かっている全員の予定の書かれたホワイトボードの前を通りかかるたび、マーカーで乱雑に書かれた予定たちをじっとにらんでは、二人の予定の合間を探していた。ようやく都合のいい日が見つかったのは二人が話をしてからずいぶん経ってからで、その頃には千早はその口約束をすっかり忘れていたものの、春香の再びの誘いにもけっして嫌そうな顔はしなかった。

「じゃあ、私たちも行こっか。待たせちゃってごめんね」
 支度を終えた春香に頷くと、千早は楽譜をしまって立ち上がった。駅までの道を歩いているあいだ、千早は、夕陽のなか無表情に立っていたのに、俄に元気になった雪歩や、真面目な表情を一転させ楽しそうに雪歩の後ろを歩いていた真のことを不思議に思って、じっと考え込んでいた。
 春香はそれを見ていて、また千早ちゃんの考え癖がはじまった、と思って、何も言わずに隣を歩いている。春香がほかの友達といる時にはいつも誰かが喋っているのが普通だし、自分でも人並みにおしゃべり好きだと思っているけれど、千早のこういう様子を見るのは嫌いではないと思った。
 帰路につく人でごった返す夕刻すぎの駅の構内を、春香と千早は通りぬけていく。すぐに電車が到着して、ふたりは人の列に連なって乗りこみ、吊革につかまった。電車が動きだすとき、家に着くまで少しかかるよ、と春香が言った。
 ベルの音とともに電車が駅を発つと、窓の中をビル街が流れ出した。夕暮れの淡い光に建物は境界も色彩もなくし、ひとつながりの街の印象となって、千早の目の前を通りすぎる。外の風景が移り変わり夜の暗さが染みわたっていくうちに乗客たちも入れ替わりを繰り返し、だんだんとその数を減らしていく。電車が止まりドアが開くたびに、寒々しい駅の空気が車内へと流れ込んだ。春香が身を縮めて、少し大げさに身を抱えて、うう寒い、とつぶやくと、千早もそれに応えるように、ただ、寒いわ、と独り言を言った。
 電車に揺られながらふたり並んで立って、仕事や学校のこと、事務所にいる他の人たちのことを、くるくると話題を変えながら、春香は喋った。千早は聞き手に回る一方で、春香が何かを尋ねるのでもなければあまり口を開かない。けれどそれは千早が春香の話に関心がないということではなく、ただその関心を上手に口にする方法が分からなくて戸惑っているようで、困惑する千早をよそにむしろ春香は、自分のために心を砕く千早の様子を見て嬉しく思っていた。
 千早の視線はいつも鋭い。そのせいで冷たい印象を与えることも多いけど、決して心の底まで冷たい人間ではないことを春香は知っている。ソロユニットとして活動しているためか事務所でも一人でいることの多い千早は心を開いた様子をあまり見せないが、いつかその芯の強いまなざしで見つめるものが、一片でも分かるようになればいい。そう思って、春香はまた口を開く。

 大きな駅を過ぎると乗客もまばらになる。大勢の人が電車を降りたことで広々と空いた座席に並んで座ると、ようやく今日のレッスンの疲れが出てきたのか、それまで元気に喋っていた春香の話すペースがのろくなり、しだいに、二人の間に無言の時間が挟まるようになっていった。うとうととしながらも、それでも話しかけてくる春香が眠れるようにと、千早は春香がささやくように発した質問には答えず、口を閉ざした。
 列車はすでに都会を遠く離れ、今や車内に数えるほどしかいない乗客たちはそれぞれが長い座席を占有するかたちになっている。肩を寄せあって眠る恋人たちや、気怠げに本を読んでいる青年、携帯電話を手にしたサラリーマンといった見ず知らずの人たちとこの列車に偶然乗り合わせ、自分たちと彼らが同じ長い距離を一緒に運ばれてきたことを思うと、千早はこのほとんど活動を停止した車内に妙な連帯感のようなものを感じる。春香はすうすうと寝息を立てながら千早に体をあずけて、ぴったりと肩がくっついているので、まるであの恋人たちのようだと思って、向かいのガラスに映る自分たちの姿を千早は見ていた。
 そうして、線路の音を聞きながら今日のことを思い返していたとき、ふと、千早は、あの夕方の雪歩と真のことがすっと胸に落ちてきたように感じた。すぐにその不思議な感触は蒸発したみたいに消えてしまい、掴みようがなくなってしまったけれど、その場面が隠し持っていた秘密に自分も触れることができるのかもしれないという気持ちは、不思議とその後になってもずっと残っていた。
 鉄橋にさしかかり、列車は河の上を越える。自分を包み込む音が変わったのに春香が少しだけ気がついて、体をもぞもぞと動かしたが、またすぐに規則的な寝息を立てはじめた。それを見つめながら千早は、春香が目を覚ましたら、今日の夕方の二人のことを話してみようと思った。隣で眠る少女がきっとその秘密をあかし、自分の世界を開いてくれる。そう思ってみると、その勝手な考えが、千早を安心させてくれるような気がした。

 じきに自身もやわらかな眠気を感じ、千早が目蓋を閉じると、すぐに意識が沈んでいった。眠りにつく前の、夢とも空想ともつかない世界の中にいて、千早は昔のことを思い出していた。
 まだアイドルとして駆け出しだったころ、地方での小さな興行を終えた千早は後片付けののち、数人のスタッフたちと一緒に、事務所に戻るため夜道を帰っていた。大人たちが歓談する一方、後について歩く千早はひとり無言のまま、失敗とも成功ともつかない微妙な手ごたえを感じながら、夜の寒さに身を縮めていた。街灯もろくになく、見渡しても周りは闇に沈んだ畑ばかりの道で地面を見つめていたとき、遠くから、警笛の音が聞こえてきた。顔をあげると、視界の中ほどをゆっくりと列車の光が横切っていた。線路のがたがたという音をともないながら、多くはない乗客を運ぶ列車の窓からこぼれる光が夜に浮かびあがり、おそらくこれから家に帰るのであろう人々の座る車中が、千早の目にはそのとき、やけに温かげに映ったのだった。そのことをなぜだか強く、憶えていた。
 千早はぼんやりとした意識の中、その時のことを思い出していて、自分が眺めていたあの列車に、いま、こうして春香と乗っているのだと思った。あの夜の自分がひとり、この流れ去る暗い景色のどこかに立っていて、自分たちのことを見つめている。その自分がじっと見つめる瞳の中に浮かぶ孤独の色が、けれど今の千早にとっては寂しくはないのだった。
 電車の明かりは二人を包んで、夜を切りとりながら走ってゆく。その光をいつまでも見守りながら、やがて千早は本当の夢に落ちていった。