みんなのうた

「その日は朝からおかしな雰囲気だった。浮かれているというのとは違うが、妙に落ち着かない、どことなく浮き足立ったような空気だった。街行く人々を見ていても、そわそわしている様子が伝わってくるんだ。そういう私自身からしてその日に待ち受けるもののことを思って気が気でなかったのだけど。
「何週間も前から、都市伝説的に囁かれていたんだ。一つの歌が、この地上から消え去ってしまうことが。みんなその歌のことを真剣に考えたことなんて一度もなかったけど、なくなってしまうと知って初めて、その歌が自分たちにとって持っていた意味に気づいた。ほんの数秒間のフレーズが、いまや血液のように身体を駆け巡っていたことをそのときになって知ったんだ。
「その最後の放送は昼すぎになると言われていた。政府は明言をしなかったものの、噂を暗に認めているも同然の態度をとっていた。彼らは今回のことなどどうということはない、取るに足らない事件だという態度を貫こうとしていたようだけど、人々の気持ちはそうじゃなかった。それはまさに一つの時代の終わりだったんだ。
「私はいつも昼食に訪れていた定食屋でその時を待つことにした。テレビがよく見える席に座って、天丼を注文した。普段ならどやどやと話に講じる客たちも今日は口数少なく、ちらちらとテレビの方を気にしていた。チャンネルはいつも通り昼間のつまらない情報番組を流していたけれど、そっちはみんなのお目当てじゃなかったんだよ。その歌はCMソングだったんだ。
「やがて司会者が何ごとかを言って、番組がコマーシャルに切り替わった。箸の音が止まり、人々が息を飲む音が聞こえた。テレビから音は流れているのに、店内はいっそしんとしたようだった。みな緊張した面持ちで画面を見つめるが、まだそれは流れない。
「気づけば隣のテーブルの男が何か歌っていた。注意深く聞くまでもなく、それはあの歌の、始まりの部分だった。それを繰り返し繰り返し、歌っていた。そうすることで、あの歌を迎える準備をしようとしているようだった。いや、これは葬送なのかもしれない、この歌と共に終わりを告げる時代への——そう思いながら、知らず知らずのうちに私も同じリズムを口ずさんでいた。いや、私だけではなかった。店じゅうのみんなが、客も店員も、のみならず街中が、日本中がそのリズムを歌っていた。どっどっど……どっどっど……という重厚な響きが体を揺らしていた。風采の上がらないサラリーマンも、軽薄そうな身なりをした男女も、私たちはみな、その心地よいリズムに体を任せていた。
「そうしているうちにやってきたんだ。その歌が流れるときが」


 そこまで喋るとおじいちゃんは大儀そうに湯呑みを持ちあげて、お茶を一口飲んだ。ぼくは緊張した姿勢を少し崩した。それからおじいちゃんが唇を舐め、口を開こうかというそのとき、
「どっどっドリランドー!」
 無邪気そのものといった様子で歌ったのは、ぼくの小さな妹だった。私はこの歌を知ってるよ、とでも言いたいのか、誇らしげな表情で妹はおじいちゃんに笑いかける。おじいちゃんは一瞬虚をつかれたような顔をしていたけれど、すぐに顔をほころばせてそうかそうか、と独り言をいった。おじいちゃんはそれで自分が話し終えてしまったかのように満足げにお茶をすすると、ぼくたちにお小遣いを手渡してくれ、遠い目をしたまま、もうそれ以上は口を開かなかった。


「あの歌、母さんたちの前で歌っちゃダメだよ」
 帰り道、妹の手を引きながらぼくはそう言った。
「どうして?」
 そう訊かれてぼくは考えこんでしまった。なにしろ、ぼく自身はっきりと何かを知っているわけではないのだ。ぼくもいつか、おじいちゃんから聞いたその歌を何気なく口ずさんでみたことがある。それを耳にした大人たちの、怒ったような、何かを恐れているような表情。母さんが父さんに向かって、おじいちゃんのことを非難するような口調で言うのを偶然聞いてしまったこともある。曰く、敵性ガチャ、云々。ぼけの始まったおじいちゃんがこうやって同じ話ばかりするのにはなにか理由があるのかもしれないと思う。
「お前も兄ちゃんみたいに中学生になったら分かるかもな」
「えー。ずるいー!」
 しかしぼくは考えるのをやめた。いまはそんなことに構っている場合ではない。今週からまた新しいガチャが始まったのだ。一刻も早くコンプしなくてはならない。ぼくはお小遣いのモバコインを握る片手に力を込めて、足を速めた。