いつかのメモ書きより

思うこと、思うままに書くのではいけない、断片を書くのではいけない。断片はあまりに儚い。後から自分自身が読み返したって意味が通らないくらい、そいつらは救いようがない。そうではなくて、考えたことなら筋の通るように整然と書き、感じたことなら生き生きと再生されるように書かないといけない。揺るぎない美学のある者なら断片のひとつにも力を持たせられようが、俺はそうではない。人に認められたいと思っているならせめてそのラインを死守しようと考えてなけりゃウソだ。断片にはその瞬間の価値しかないからだ。価値があったということをただ俺一人だけが思い出せるのみだからだ。一瞬の後には塵芥になる何かを書いて、それで認められたいと思うのはあまりに無邪気すぎる。書きちらかしたメモを人に見せてさあさあとねだるその態度は何なんだ?
日記を書くのをやめるべき、やめたいなと思う。俺の、今の状況はあまりに痛々しい。狂騒的態度で俺が日記を書き、生活と思考の、いちばん恥ずかしい部分を除いて、何でも、思った通りに書くようにしてきたのは、こうやってインターネットに対して無防備に曝け出しておけばいつか、俺の人格を認めてくれる人が現れてくれるかもしれないという思いが根底にある。はかない願いである。そういう無邪気な望みに対して、時間と、労力とを費やせるという点においては、俺はまったく少女的だと言っていい。いいよね? けれどとうに思春期をも過ぎた現実世界の男にそんな都合のいいことは起こらなくて、純粋な願いだったものの風化だけが進んでいく。-大体この考えはあまりに安易だ。- 何の痛みもなく、苦しみもなく、日記を書くだけなら誰でもできる。そこに他人にとって価値があるとすれば自分固有の体験だけだ。つまり赤の他人の行動の、サンプルとしての体験、そんなものは俺の価値ではない。
俺は何かをしなくてはならない。ただ手癖で生活を思考を記録するだけで何かを認められた気分になっては絶対にいけない。俺自身に価値がないなんてことはないが、その価値に俺の人格が占める部分はまずない。他人である俺のために誰も悲しまず、喜ばず、初めから他人だったから終わりも他人のまま、ずうっと他人のまま時間が過ぎていく。
思うところを、書いてみたところで、それが認められるわけではなく、何も晒さない人間も、普通は友人がいて、その友人と語らい、人格の交換をして、互いに相通じあい、人格を打ち込んだ何かの制作を共に行うことだってできる。俺にはそのチャンスもない。人のために心を開かず、何のアピールも行わないからだ。俺は無能で不感な人間だからだ。
だから俺はこの日記を辞めなければいけない。辞めて日常の抑圧と想像をある程度まとまった形にすることで[ここで途切れている]

一年以上前のもののようだが、そうか、それならば、というわけで(いや、読んでないんだが)、おれはいよいよこの日記を辞めようかなと思います。今年じゅうそう思っていたらやめます。とはいえ、テキストエリアは常に手許に残しておかなければいけないず、何かしら別に用意はすると思うので、もしアレなら(アレか)先の私信をどうぞ。複合的な要因があり、前々から思っていたこととはいえ、だいいちに最近は自暴自棄なのである。