蝶男の噂

噂といってもそれほど大層なものではなく、局所的で、ほんの一時的なものだったので、いま思いだしていること自体が驚くべきことでもある。

中間試験の時期で、そうすると午後の早い時間に帰宅できることになるので、いくら生真面目だったおれでも、少しは校外で羽を伸ばしてから帰宅しよう、となるのは当然だった。たぶん翌日の科目は公民とか、気楽な日だったということもあるのかもしれない。それでその日は友人たちと一緒に、というよりは勝手に着いていくかたちで、ゲームセンターに向かったのだった。

川沿いの、そのおんぼろのゲームセンターは、いつもの通学路からは少し外れるものの、バス停が目の前にあって、帰るのに都合がよかった。バスの時刻だけ調べておけば、頃合いをみてゲームに勤しむ友人を残して先に帰れるので、一緒に帰ろう、などと言いだしにくい自分としては大いに助かった。おれは当時から自由になる金など持ちあわせていなかったので、ひとつもゲームで遊ぶことなく同じ制服の面々が操作するそれぞれの画面を横から覗いているだけで時間をつぶしていた。

当時は、なのか今もそうなのかは知らないが、流行っていたのは格闘ゲームで、アニメ調に描かれた、活き活きとしたキャラクターたちを自在に操る様子を羨ましく見ていた。ただ、そこまで到達するには相当に練習が必要だったはずで、100円も無駄にできない当時の生活で、それをなげうってこの戦いの荒野に打って出ることなど考えられもしなかった。

おれが一緒に行動していたのは当然オタクたちのグループで、昼休みには教室内でひとかたまりになってアニメだかマンガだかの話をしているような面々だった。一方で、野球やサッカーをしているような奴らも同じようにゲームセンターにいて、同じようにゲームをプレイしているので、これらを完全に分断された2グループとして見ていた自分としては驚きの、というべきか、違和感のある、というべきか、とにかく奇妙な空間に映ったのだった。

そこに小一時間もいれば音と光にも慣れてしまい、その日はまだ誰も帰らないようだったので、一人でバス停の前に立っていた。一度は栄えたところらしい、猥雑さと古臭さをそなえた町並みで、やや傾斜した、整備の行き届いていない道路を、跳ねるようにバスがやってくるのが常だった。その道路の向かい側にも同じ名前のバス停があって、駅でないほう、大学病院にまで通じる路線だったが、そこに奇妙な風体の男が立っていた。新しめのスーツをぴっちりと身にまとい、男がこんな時間こんな場所のバス停にいること自体、場違いだったが、しかし何よりおかしかったのはその顔、というより頭部で、おびただしい数の蝶がその周りを飛びまわり、視線はおろか顔つきでさえ隠しきってしまっていた。

「何あれ、山賀くん」 傍から見ても気になる凝視っぷりだったらしく、ふらっと近づいてきて、昼休みサッカー組の加納が言った。隣のコンビニでジュースを買ってきたところらしい。おれは、あ……ちょうちょ? みたいな間抜けな台詞だけ言って口ごもった。加納もはじめ理解しかねた様子だったが、蝶男を認識すると、うわ、やべぇ、と言いのこしてゲームセンターにいる仲間たちに報せに行った。

加納が戻ってくる前におれの乗るべきバスが到着し、おれはバスの座席に座って、少し近く、少し高い位置から蝶男を見おろす形となった。そこからでも蝶男の首から上は蝶の霧につつまれて何もわからず、そのままバスは発車してしまった。反対向きのバスとすれ違ったので、見送ると、蝶男がバスに乗り込んでいくのが小さく見え、少し遅れて、加納とその仲間たちに混じって、水谷くんが自転車に乗って、その後を追いかけていくのが見え、曲がり角に消えていった。