ボクっ娘の何が良いのだろうか、それを正面切って考えたことはなかったから今ひとたび俎上に乗せてみることに価値はあるだろう。はて。ボクっ娘の目覚めはじつに小学生のときの初恋の女の子まで遡るんじゃないかと思うのだけど、実際にそういう娘はいた! いたし、そのころにはもう自分の性癖というものは決まっていたのじゃないかと思う。全体に女の子のことは好きだったのだけれど。もはや名前も覚えちゃあいないけれど。キャラクター的なキャラクターとして、いわるゆボクっ娘として記憶してるのは、そんなに数多くはなくて、というかただ二人だけで、一人はテンガアールです。ヒックスとテンガアールのことを覚えているか? もうとにかくあの二人のことは最高だったよね。幻水のソシャゲとかやんないのかなあ。キャラビジネスなんだから、目はありそうなんだけどな。幻水2は3周くらいしたがほぼ確パーティに入るカップルではありませんか。グリンヒルにも行くでしょう。テンガアールはボク、じゃなくぼく、とジブンを呼ぶのだった。それが何にもまして良かった。なので真にはじめて出会ったときは、ビジュアルでもちろん選んだ(それしか手かがりはなかった)のだけど、ボク、なのか……というのは引っかかりとして確実にあった、ことを憶えている。真に関してなにかこれ以上言うつもりはないが、結局はその二人じゃないかな。別にボクっ娘が好きだという自認はないわけだけど。

ボクっ娘の効果というのをいま手元に書いたスクリプトから抽出しようとすると、まず幼さというのがあることはない? 性的な自認というか、第二次性徴を迎えきってない、未分化な、だけど確実に女の子である彼女、というのがその一人称には込められているよね。そこにあわせて、ほぼ無前提に女性性を見いだす第三者=おれの視点がつねに存在しているわけで、そのギャップが抗いがたい魅力としてある。それと、多少かぶるのだけど身近さもある。〇〇ちゃん、〇〇くんと呼びあうような仲、親密さ、そこに顕在する性的なストーリー、そういうものを書きたい。と思っているらしく、素面のときは私、であるし名字で呼ぶのに、性的に解放されるとぼく、だし名前呼びになっていて、それはビールのなせるわざなのであるけれど、そんなギャップに意味があるのか、それとも気分の問題だったのかは検証しないといけない。