その後も『フロリダ・プロジェクト』のことを考えていて、もっと正しく讃えるべきだと思ったのでここに書く。『万引き家族』を見たあとだったのもあるかも。グーグルが描くインターネットの言論世界は、末期的に広告に毒されていて、読まれることに歪んだインセンティブを注入された記事と、ロボットだらけの地平線で、書かれることが目的だった投稿は、そこにはほとんどない。

『フロリダ・プロジェクト』を観る前に知っておくべき知識は、舞台が、ディズニーのテーマパークの周縁部にある、低所得者層のモーテルである、ということだけ。怪しい商売でその日暮らしを強いられている母娘なのだけれど、それがどんな風にもつらくは描かれていなくて、ムーニーの、子供の視点というフィルタを通した世界は鮮やかで、けばけばしい色の建物と、快晴の空と、とにかくとにかく、全てが遊び場になっている。ジャンシーを連れだしたときの建物たちの、色とりどりの見世物感がそのまま。その無邪気さの前に、大人の事情や思惑など脱色されてしまう。ただただ、その力の強大さにおののく。笑ってしまう!

子供であるということは、無条件に護られていること、そのことを知らないでいることで、その無害な世界は大人たちに護られているわけだけど、それが母親とモーテルの管理人。悪ガキたちに困らされ、罵声を浴びせられてもボビーは、子供たちにはあくまでフェアに・ドライに接しようとしているようにおれには見えて、それは積極的な愛情ではなかったと思う。かれはなにか自動的な機制によって、ムーニーたちを護ることになっていた……のだと思う。指で子供らをそれとは知られずに撃つシーン、あれがギリギリ限界の接近だった。母親は……。クレイジーで、困難には怒りでもって抵抗し、とにかく中指を立てまくる。悲惨なそぶりなんてかけらもない。深刻なことを考えてるシーンはなくて、ただ行動のみが映されている。それでも子供は護られていたのだけど、バスルームに客が入るシーンで、何かが破られた。

最後のシーンのことを思うと胸がしめつけられる。何の解決でもなく、誰かが成長した物語でもない。ただ子供はイノセントな世界の終わりを感じて、友だちのところに駆けていく。そこから先のことは、子供にできる最大のことであって、現実にはなんの効力もなく、戦いではない。子供の夢は唐突に終わり、大人の夢に逃げこんだところで、大人の世界は一日ごとの営業なわけで、その日の夜にはすべてが終わる。それでも最大限をやったのが重要なんだ。成長ということでいうなら、ジャンシーのそれ、関係のそれがあったのかもしれない。