とトゲッターを見て思う。異文化交流というのは、特に一方が、互いの信念が衝突しているのだと気づかないとき、その信念が自分の生活してきた慣習に深く根ざしていてそれが信念だとすら気づかないときに恐ろしさが最大化されると思う。その上で意見や利害が噛みあわないとき、相手を理解するという手札は初めからなくて、なぜ当然のことに従わないのかという一方的な『説得』という形にしかならず、気ちがいと話している気持ちにすらなる。相手はそのことを分かった上で丁寧に対応したりもするのでなおさら泥沼化する。相手と自分が同じ文化の中にいると思う(もしくは、相手も自分と同じ文化の中にいるべきだと考える)のは、こういうのは何と形容されるべきなのか…。昔の西洋人みたいですね。