自分のための活動だけがいつもいつも正しいのだよね。
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調子に乗って1ミリジェルペン買ったら太すぎた。
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寒いなぁー。しかしこの寒さこそが冬だよね。おれはこの寒さに「いいね! 」するよ。
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まあ、執着を美化するのは……人間の特権ですからね。おれは評価しないけど、認めてあげる。
ダレン・シャン『ダレン・シャン』 #2
- 作者: ダレンシャン,田口智子,Darren Shan,橋本恵
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2001/09/12
- メディア: 単行本
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奥行きをもたせてもっと恐ろしく、もっと深く考えさせてもいいように思うがそれがないのは、ただおれが斜めに読んでいるだけか。子ども向けだよなー、と確認しながら読んでいるけど、わりと人は傷つけられ死ぬ。人間関係の濃さ薄さの感覚もよくわからないが、読んでいったら知れることもあるのかも。つまんなくはないので読む気は引き続きある。
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今日は川を見ていた。ゆらゆらと踊りつづける光が、注目をとけば柱の影になっているのを知って、媒体それ自体よりその動きの全体が系をなす波の性質に思いを馳せる。物理だと力学は原理が簡単だし好きだったが、波動はよくわかんなかったんだよな。ふたたび勉強してみてもいいかもしれない。
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ボクっ娘の何が良いのだろうか、それを正面切って考えたことはなかったから今ひとたび俎上に乗せてみることに価値はあるだろう。はて。ボクっ娘の目覚めはじつに小学生のときの初恋の女の子まで遡るんじゃないかと思うのだけど、実際にそういう娘はいた! いたし、そのころにはもう自分の性癖というものは決まっていたのじゃないかと思う。全体に女の子のことは好きだったのだけれど。もはや名前も覚えちゃあいないけれど。キャラクター的なキャラクターとして、いわるゆボクっ娘として記憶してるのは、そんなに数多くはなくて、というかただ二人だけで、一人はテンガアールです。ヒックスとテンガアールのことを覚えているか? もうとにかくあの二人のことは最高だったよね。幻水のソシャゲとかやんないのかなあ。キャラビジネスなんだから、目はありそうなんだけどな。幻水2は3周くらいしたがほぼ確パーティに入るカップルではありませんか。グリンヒルにも行くでしょう。テンガアールはボク、じゃなくぼく、とジブンを呼ぶのだった。それが何にもまして良かった。なので真にはじめて出会ったときは、ビジュアルでもちろん選んだ(それしか手かがりはなかった)のだけど、ボク、なのか……というのは引っかかりとして確実にあった、ことを憶えている。真に関してなにかこれ以上言うつもりはないが、結局はその二人じゃないかな。別にボクっ娘が好きだという自認はないわけだけど。
でボクっ娘の効果というのをいま手元に書いたスクリプトから抽出しようとすると、まず幼さというのがあることはない? 性的な自認というか、第二次性徴を迎えきってない、未分化な、だけど確実に女の子である彼女、というのがその一人称には込められているよね。そこにあわせて、ほぼ無前提に女性性を見いだす第三者=おれの視点がつねに存在しているわけで、そのギャップが抗いがたい魅力としてある。それと、多少かぶるのだけど身近さもある。〇〇ちゃん、〇〇くんと呼びあうような仲、親密さ、そこに顕在する性的なストーリー、そういうものを書きたい。と思っているらしく、素面のときは私、であるし名字で呼ぶのに、性的に解放されるとぼく、だし名前呼びになっていて、それはビールのなせるわざなのであるけれど、そんなギャップに意味があるのか、それとも気分の問題だったのかは検証しないといけない。