気づけば田舎の村はいちめんの緑!緑!緑でないところを探すのが難しいほどに緑。

ウィリアム・ゴールドマン『プリンセス・ブライド』

おれの手にあるのはもっと素敵な表紙だけど。Amazonによると2008年に購入したものらしいので10年近く放っておいたことになる。おれにもそんなに歴史がついたのか……と思うが。そんなことはともかく一気に読んだ。目次をパラパラと見て、次のページをめくったときに赤のインクで書かれた「プリンセス・ブライド」、これを見ただけでおれは感極まってしまってなんでこの表紙を見るところまでたった数ページを読むことすらしなかったのか、おれは、と自分をなじり、そして読みの中に入っていった。わたしだ。面白い。ファンタジーと物語。その世界を余すところなく感じた! 冒険譚。英雄譚。愛の物語。そして物語の物語。軽妙な語り。

最後はよくわかんなくなってきたんだけどとにかくよかった。

暖かくなって高校生が駅前にたむろし横に揺れながら語らいながら時間の過ぎるままにさせているのをおれは愛するがそれにしてもお前たちおれをそんなにもそんなにもないがしろにしてどうして平気でいられるのだ。ただそればかりの明るい夕方だよ。

どこだかの遊園地に短髪の女の子と行くことになっているんだけど、別の長髪の女の子が誘いの手紙をこれから書くから、という空気を出しているのでその場を辞してそうさせてやる(ビジュアルはいずれもever17)。遊園地へのバスの中で、入場にはICカードが必要なことを車掌に言われるが、持っていない。昔つくったこれは使えるか、と聞くも、とにかく作らせたい風である。考えあぐねていると窓の外を並走し手を伸ばして不要を伝えてきた。

同僚が山火事をすごく心配していて、このような場合には起こらないのだよ……ということを懇切に検証する。

目の前に立っていた浪人生風の風体の男の操るスマホ画面を肩ごしに覗いていたが、最新のGoogle検索履歴が「エロいジュニアアイドル」「jk自撮り」であまりにストレートすぎて笑えた。

なんか読書ログも散らばってるので一箇所にまとめたいなー。

スーザン・A・クランシー『なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか』

なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか (ハヤカワ文庫NF)

なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか (ハヤカワ文庫NF)

著者はもともと幼少期の性的虐待の偽りの記憶に関する研究をしていたのだけれど、社会的なバッシングがあって続けることが困難になり、アブダクションという、よりカドの立たなそうな題材を選んだということらしい。しかしこの性的虐待の話も恐ろしさがある……。身内から身に覚えのない話で糾弾されるというのは。

アブダクションの体験は催眠によって思い出されることが多いが、まずその過程自体に問題がある。ここ40年ほどの研究から、「催眠は記憶を回復させるのに好ましい方法ではない」、むしろ「偽りの記憶がつくられやすくなる」ことがわかっている。催眠による記憶の回復は強烈な感情を伴うことがあり、その経験自体の強さがアブダクティー本人にとっての迫真性を増している。

「アブダクティーは、ビリーバーでない人より統合失調型基準にあてはまる」とも言われている。ただちに統合失調症とはならないが、スピリチュアルなものを信じやすくなったりもするらしい。いわゆるヒステリー(科学的にそういうカテゴリはないが)的であるとも述べられている。ヒステリーは社会的な病症で、「その社会で認められている病気の形をまね」るものであるから、つまりアブダクションやエイリアンというストーリーがそれだけアメリカで市民権を獲ているということだろう。

彼らアブダクティーはそういう素地を持っていて、かつ睡眠時麻痺(金縛り?)やその他の強烈な体験をし、その理由を求めていた点でみな共通している。科学的な無味乾燥な説明(これをアブダクティーが知らないわけではない)よりも、体験を伴い、ストーリーとして理解でき、また人生の意味と宇宙へのつながりを得られるアブダクションが受け入れられるというのは理解できる話だ。おそらくは神とのつながりよりもエイリアンとのつながりのほうがありえそうだという感覚で、精神と物質と科学の微妙なバランスを感じる。

しかし催眠療法やそれを行うカウンセラーのあること、エイリアンという存在が都市伝説として十分な地位にいることがアブダクティーを生みだしているのだと思うと、これは心理的というよりアメリカの社会的な症状なんだろうなあ。そういう観点から見た本があったら読んでみたい。これからアメリカが没落し世界の王様としてのアイデンティティを失うと、エイリアンが訪れる道理もなくなるのだろうか? そして性的虐待に関しても同じ構造があると考えるとやはりコワイ。

ハヤカワのノンフィクションは初めて読んだかもしれない。著者は科学的な薀蓄を垂れたり講釈してやるという態度ではなく、自分の研究について真摯に描いている印象で、調査対象のアブダクティーたちにも十分な経緯を払っているように見えて好感が持てた。

スティーヴン・ミルハウザー『エドウィン・マルハウス』

若くしてこの世を去ったアメリカの天才作家エドウィン・マルハウスの人生をつづる伝記……を装ったなにか。装ったなにかである、というのも、エドウィンはたった12歳で死んでいて、この本ではその人生を幼少期・壮年期・晩年期に大真面目に分けてみせているおかしさがある。

所々の紹介では鮮やかに描かれる子供の世界、のように書かれていたりするが、そのような感想はとくにない。幼少期はエドウィンと書き手のジェフリーばかりの登場でけっこう退屈なのだけど、壮年期(小学校にあがってから)に入ると一気に面白くなった。読んでいると、エドウィンの伝記のような体をしているが、ジェフリーの話なのではないかという風に強く感じられる。あとがきを先に読んで、信頼できない語り手なのかな、と思っていたけれどそれとも少し違う気がした。ジェフリーは偏執的な観察対象としてのエドウィンと心のなかで融合し、伝記としてのエドウィンの人生を見ていた。エドウィンは主人公のようでありながら本の中に閉じ込められ主体性を失った存在であり、終わってみるとこれはジェフリーについての本なのだという思いが残る。

生涯をふり返る話、信頼できない語り手ということでウルフの『ピース』を連想したがそれもあながち間違いではないように思う。エドウィンに関わった人物の死には不気味さもある。

おっさんがワンカップを飲む理由いまは分かる。ランダムに聞いていたらはじめてくるりに行きあたる。『東京レレレのレ』とかいって、思わず口ずさんでしまうよのう。日本人になじみある音階ってだけでくるりには何も帰属するとこないのだと想像するが。

長い夢だったので忘れる前に簡潔に

- 小さい子供をマッサージしていたら肛門から腸をはじめ内臓が出てきていた。押し戻すが戻らない。本人も周囲もけろっとしている

椅子大の大きさの人を殺すロボットが合宿中の建物に大量に侵入してきて、生き残ったものの多くが図書館に逃げ込んでいる。準備を整えて大群を迎え撃つと、黒い塊となったその先頭は人間の顔と身体をし、人の言葉を話している。しかし話してみると本当は人間ではない、ただそういうインタフェースである