読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

すぐにばれちゃうよ、と伊織は言った。街灯に照らされているというのに恐ろしく暗い夜に身を寄せながら、伊織はつぶやいた。「わたし自分のベッドも、うさぎのぬいぐるみも持っていないのよ。紅茶さえ飲んだことがないんだから、わたしったら!」
彼女は最後の最後で怖気づいているのだった。だからこそぼくが今ここにいるのでもあった。もちろんこんな所で彼女を留まらせるわけにはいかなかった。彼女のような美しい少女は幸せでなければならないが、たとえその幸せを掴むのが最後には自分自身の力によるのだとしても、そのお膳立てを誰かがしてやる必要がある。その最後の一押しに、ぼくは口を開いた。
「それがどうしたっていうんだ?今の伊織は下着から何から、新しい服に身を包んでいる。それにリンスもして。髪もつやつやでいい香りだよ。どこからどう見ても伊織は恥じることのない立派なお嬢さまだ」
「でも、きっと、うまくいかないよ。わたしはほんとうのお金持ちじゃないし、ばかだから」
扉をじっと見つめて、痛々しく全身をこわばらせている。
「伊織にはそうなる資格があるよ、今は違っても。ただ足りないのは自信だけだ。それは行動の後についてくる。ほら、行っておいで。歩き出したら伊織はもう、人も振り返るご令嬢だ。少しくらい高慢にふるまってやれ」
片耳で聞いていた伊織が、ちら、とこちらを見る。これでおしまいだ。目を合わせて、ぼくはさよならを告げる。
「一年も経つころには、きみは見違えるように立派な女の子になってるから」
この日のために二人で力をあわせてきたのだから、もう何を言わなくてもいいはずだった。事実その通りだった。まもなく伊織は目をつぶって、ほーっ、と息を吐く。そっと背中に触れてやると、決心したように彼女は歩き出した。そうして伊織は一人で、事務所のドアをくぐった。ここから先は、彼女ひとりの領分だった。