お互い分かりあえないことはそれこそお互い分かっている

よね。おれは活字に菊地真を見かけるときその名前を気安く読むことができなくて、どうしても頭のどこかで、彼女の名字が菊「池」と書かれていないか、どこかハラハラとした気持ちで確認するという習慣を、ことのはじまりのころから知らず知らず身につけているらしい。おれが読むとき、おれはその誤植を発見することを心配しているようでかつ、望んでいるようでもある。その懸念や期待が果たされることはほとんどなく、ほとんどないってことはつまり、たまに遭遇することもある。そういう時、見つけたおれは(ああ……)と思って、それから、思うだけで何もしない。しないのでした。