……俺がよい文章を書くとはいわないし、まったく思わないが、よい作文をしたいとずっと悩んでいたってことは、まあ、確かだ。日記を書くことは、恥を捨てて一度決断さえしてしまえば簡単なことなんだけど、読書の記録みたいなものを書こうと思い、そこで何故か他人の目を意識すると途端に、モヤモヤとした難解さが立ちはだかって、どうしたらいいのか分からなくなっていた。それがあるとき、本の感想というものも、あくまで個人的なこと、日記的なことであるのだということに(言葉にすれば当然だけど)ふと気づいたときがあって、それ以来少し気が楽になった。依然として技術的にも精神的にも拙いままであるのは変わらないのだけど。とにかく「個人的なこと」というのはそれからひとつのキーワードになった。
高校のころ、現代文の参考書を暇潰しに読んでいた中で、なんとなく記憶に残っていた小説のことを(吉行淳之介の『蠅』だった)今になっても思い出すことがあって、それなら読もうと思い、アマゾンで、それが収録された作者の作品集か、それともその参考書か、迷った挙句、後者を選んだ。『高校生のための文章読本』というやつで、古今東西の様々な文章が抜粋されて収録してある。当時はまったく面白みが分からなくてほとんど読みもしなかったんだけど、今になって読んでみたら面白くて、シリーズ三冊を順に買っていった。

高校生のための文章読本

高校生のための文章読本

高校生のための批評入門

高校生のための批評入門

高校生のための小説案内

高校生のための小説案内

それぞれの本に文例が数十と、各文例に設問があり、解説が別冊に収録されている。すごく簡単にまとめると、それぞれの本で、

  • 作文とは自分のことを書く行為である。
  • 批評とは自分と世界との差異を見出すことである。
  • 小説とは世界を築き上げることである。

というようなことを言っているように思う。そしてさらに、これらを通じて自己や世界を見つめなおすことを促している。だからこの本たちは、文章というものによってよりよく生きる訓練をするためのガイドブックともいえる。書くことは個人的なことであると自力で“発見”してきた経緯があったので、文章というものを個人的に消費なり生産していいのだという、メッセージを読みとって俺は勇気づけられた。
各文例に添えられた設問は、問題というよりは、読むことを促すための問いかけだった。俺はそれまで本当に勘違いしていたのだけど、文章の部分や表現のすべてに作者の意図が満ち満ちているわけではなく(そういう作品もあるのだろうとは思うが)、あくまで、書かずにいられなかったことが書かれるというのが起点だ。そして、作者の心に正しく従って書いた結果このようになったが、ではそれはどうしてなのだろう、というところが指し示され、設問となっている。解説も、作者がそう意図して書いたという正解があるというようには述べなくて、単にそう書かれた理由を、解説者が考えている。それは俺たちが作者の側に立つことというよりは、ただ、読むことだ。書いた本人ですら、いちど書かれたものに向き合っては読者でしかありえないのだろうと思う。
収められた文章そのものもよいんだけど、これらがこのように選ばれ、抜粋され、つまり編集されているということが、何だか心を打つし、章の合間のコラムを読んでいても、編者の思いというものを感じる。当時は大人の言うことだと斜に構えていたことも、今なら素直な気持ちで読むことができる。まあ高校生の自分には、この本は無理だったろうと思う。それは仕方がないことだよね。
(つづく)