プライドが邪魔をする

ひとが楽しんでいるところに水を差すような、語り・言説というのは最後の抵抗だ。おれのプライドが侵されていることに誰か気づいてくれているのだろうか。満たされない自意識に気を払われないことへの最後の手段に、口が出る。文字通り言葉を尽くして、おれは(おれならば)こうではないのだと、君たちにはない知識や能力や来歴があるのだと、くどくどと語る。それを聞いてくれている心優しい周囲の人間は、やがて心を改めておれに敬意を払うだろうか? いま現在彼らの心におれの占める位置がないのがおれのしてきたことの結末だというのに、今さら言葉で語ることになんの説得力がある?「あなたの気持ちは分かります、それであなたが不当に評価されないと思っていることと、今私たちが話しているこれとに、どのような関係が?」おれは言葉を並べ立てて満足するが、他の人に理解できるのは、おれの執拗な拘りから、自意識の拠り所が何にあるのかというヒントと、おれが行動を伴わずに口先だけで一目置かれたいと思い、それに満足する人間であるということ、それから、同情。それを知った彼らはいつか、おれの自尊心をくすぐるような世辞を言ってくれるかもしれないね。それで満足するというのなら、それはそれでロハスなのかもしれない。(ロハスの意味は知らない。)