頭がフワフワと間延びしていて、2メートルくらいの高さにある。ここからならば首を吊ることもたやすい。これが希死念慮か、という実感を伴う。node-gyp がなぜかこれの略語となっているのだった。
『ブッダ伝』を読む。原始仏教の教えはこのようであったのか、と知る。教えを伝える本ではなくて、ブッダの来歴を記したものなので、そのものズバリと書かれているわけじゃないんだけど、それがまあ却っていい気がする。文献からの引用が多く、それに基づいているので著者の私見が少ない(ように感じる)のもいい。
やはり原始仏教は実践哲学だったようだ。毒矢を受けたものに、誰がそれを放ったのかなどを教えるのではなく、その矢を抜くことをするのだ、という「毒矢のたとえ」が象徴的。また、輪廻転生や解脱といった観念は仏教独自のものではなく、バラモン教、もっといえばインド古来の死生観によるらしい。生は苦しいものであるから、その連鎖を断ち切る、というのが究極の目的になる。なんてこった、と思うが、そんなことが2500年も前から語られ続けていた。
これが現代日本の仏教にどう転じていくのかは興味あるけど、知っても愛着を持てるわけじゃあないんだろうなあ。
ローソンでコーヒーと大福を買って、空き地の縁石に腰かけてこれを書いてたが、10分で手がかじかんでしまう。